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2009年02月16日

「自殺」について

文学者で自殺によって命を絶った人は多い。
芥川に太宰や川端、ほかにもいろいろ・・・・・・

10代はよく小説やエッセイを書いていたので、ある人が、
世を儚んで命を絶つ文学者の精神心理はわからないが、
自殺をなぜするかわからない、と言っていたのを思い出す。

自殺をするな、しないで、とはよく言われることである。
親は子に、友人はその友人に、夫は妻に。

最近、カウンセリングの勉強をはじめたことがきっかけで、
かつて精神医学や心理学の本を読みあさっていたことを思い出し、
また本を引っ張り出している。その中に、うつ病や躁うつ病に
関する論文で、フロイトの「喪とメランコリー」やテレンバッハに
触れているものが多く(といっても、一次文献になるので、
当然なのだが)、そうすると、うつについても考えたりする
機会も増えてきた。

うつは、回復期に自殺者が多いとはよく言われることである。
バイポーラーに限らず、波が上がってきたところが制御が
効きにくい。

「自殺」と、よくメンヘルの人たちが使う「消えてしまいたい」と
いうのは、たぶんに違いがあるように思う。

「消えてしまいたい」「存在を消してしまいたい」というのは、
決して我が身の命を絶ちたいわけではなくて、それよりも
いまの自己の立場から遊離して、その立場には立脚しつつ
生きていることの責任から一時的に遁走したいという感じだと思う。

ふと調子が悪い場面で、自己に入り込み「自殺」と考えることは
あるが、それが本当に、たとえ一時的なイメージまたは夢想である
としても、命を絶つ自殺を思っているのかははなはだ疑問である。
それよりも、生をこの場から降りたい、さらにいえば、いままで
素朴に引き受けつづけてきた「役割」をかなぐり捨ててしまいたい
という叫びなのかもしれない。

「役割」を自己同一化しているとしても、それほどの「役割」は
担っていないとは思うが、幼少期から培われてきた反射的な
心理反応に自ら辟易しているのだろう。
その点で「消えてしまい」という場合、いままでの生をリセット
して完全にレールから降りたいという感覚は痛いほどわかる。

「消えてしまいたい」人たちにとって、リフレッシュは一時的な
気休めでしかなくて、リフレッシュもリラックスも瞬間的な
清涼剤でしかない。生から降り立ちたいのは、他人から押しつけ
られた「役割」ではなくて、生まれてから自らが選び取って
敷設してきた種々の「役割」というレールからの離脱である。

生きているまま生から離脱するというのも、生には固執しながら
念でとどまる生き霊のような様相を呈している。

生き霊となって私はどこにいくのか。
生きながらにして死んでいる生身の人間として、
まだしばらく夜明け前をさまよっている。
posted by 湖衣 at 00:36| 愛媛 | Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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